施設長の学び!書籍の学び

“自立”を希求した人々

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“自立”を希求した人々

 「ここだけしか自分を受け入れてくれるところはないのだ、生きる場所なのだ、と自分にいい聞かせ、それからの日々は、自分の意志を殺して、かわいがられる障害者として、不利益になる立場を避け、自分が正しいと思うことでも逆らうことのできない私になっていったのです。」

 新田勲という故人の言葉です。
 重い脳性麻痺だった新田氏は、1965年に生家を出て、身体障害者更生施設に入所しました。その時の心情ががつづられています。

 前回に続き、『福祉と贈与』について書きます。

 1970年代に、新田氏は施設を出て、自ら募ったボランティアたちの支援を受けながらアパートで生活。冒頭に書き出した言葉からうかがわれる、不安感や無力感の反動でしょうか。行政への公的介護保障要求運動という、先駆的な活動を展開していきます。
 新田氏の人生そのものが、日本での障害者運動の変遷と重なっているようです。

 著者・深田耕一郎は、2005年8月から約8年間、この新田氏の介護者を務めながら、「福祉を贈与として立ち上げることは可能か」との思索を深めました。
 本書は、新田氏をめぐるノンフィクションとしても、読み応えがあります。

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「絶対に曖昧にしてはならない問題」

 大学院生だった著者は、修士論文を提出するため、「介護を休ませてほしい」と申し出たことがあるそうです。
 すると新田氏は、長い手紙を寄こしました。新田氏が足のつま先で床に書いた字を、介護者が読み取って書き起こしたものです。以下に抜粋します。

 「深田くんは人の手を借りなくても生きていけます。私は人の手を借りないと生きていけないし、そこで命を落とします。やはり、深田くんにとって、障害者とのかかわりをあまりに軽く見ているからこそ、卒論の論文を書かないとならないので、介護の時間を短くしてくださいという言葉が吐けるのです。こういう言葉を吐けるということは、健全者の都合や意向によってしか障害者は生かされていかないし、その言葉の裏には、命が無くなって強い者が生きていくために、殺されていくことにつながっていくのです。私とのかかわりは、厳しいと思いますが、命を基本に置いたら、そこだけは絶対に曖昧にしてはならない問題なのです。」

 障害者福祉が現在のような形になった経緯について、私はひととおり学んだことがあります。社会福祉士の資格を取得するためには、必然的に勉強しなければならないからです。
 しかし、それは単なる情報の記憶に過ぎず、試験後には大半を忘れ去っていました。

 障害者福祉の業界で働いている私ですが、現在の仕事の“枠組み”が成立する際、「人の手を借りないと生きていけない」という立場からの切実な行動があったことを、本書で初めて知ったように思います。
 そして、強く主張することができた新田氏の背後に、主張することができなかった多くの人々の存在を見たような気がしました。

photo credit: davedehetre via photopincc

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