施設長の学び!書籍の学び

『妄信 相模原障害者殺傷事件』

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『妄信 相模原障害者殺傷事件』

 今回は父親の話から始めます。
 私の父は80歳(現時点)。2人の息子がおり、健常者であるこの私と、そしてダウン症の弟です。

 大家族の長男に育ったせいか、社交的で世話好き。周りに推されて町内会長を務めたことも。
 このような父ですが、弟と2人で外出したことはありません。

 私や母は、ショッピングセンターでも映画館でも公共施設でも、弟を連れてどこにでも外出していました。弟も46歳(現時点)になり、体力的なおとろえが目立つので、外出の機会は少なくなりましたが。

 ところが父は、弟を連れて2人だけで外出することが、昔も今もできないのです。弟に母や私を加えた“家族”であれば、父はレジャーにもショッピングにも普通に行けるのに。
 家庭内での父が、愛情を持って弟に接していることを、私は知っています。決して息子を愛していない訳ではありません。

 父自身“できない”ことを意識しており、弟を連れて外出しようと努力はしていました。
 2人乗りの自転車を購入し、弟とサイクリングを計画したこともありました(結局は果たせずに終わりました)。

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深く根を拡げている拒否感・抵抗感

 障害者(あるいは障害そのもの?)への拒否感・抵抗感のようなものが、父の心の奥底に、深く根を拡げているのでしょう。克服したくても、親の情愛だけでは“駆除”できないほど、その根はしぶといようです。

 ここからは書籍の話です。

 本書には、2016年7月に起きた相模原障害者殺傷事件での、朝日新聞取材班による報道などがまとめられています。
 この前代未聞の事件は、社会に大きな衝撃をもたらし、障害者福祉をめぐるさまざまな問題を浮き彫りにしました。犯行を招いたとされる“優生思想”の風潮や、大型入所施設の是非、重度障害者たちの実態など…いくらでも列挙できそうです。

 中でも私が気になったのは、殺害された障害者たちの実名がほとんど報道されていないところ。そして、実名公表を拒んでいるのが、被害者の遺族たちというところです。
 亡くなった被害者に対しては、遺族それぞれに家族としての情愛を抱いていたはず。それでも、個々人の名前を明かすことはできませんでした。

 私の父と、相通じるものを感じます。
 深刻さの度合いは大きく異なるものの、同じような思惑、「障害のある身内の存在を世間に知られたくない」との思惑がうかがえるからです。

 その思惑の根を深く深くたどっていけば…もしかすると、障害者の排除を実行してしまった加害者のメンタリティにまで至るのかも知れません。

 罪に問われ、それを償うべきは、もちろん加害者です。
 ただ、事件が起きたこの社会の“土壌”から、加害者も被害者も生じており、そうである以上、私たちの誰も無関係ではいられないはず。…本書を読み、父について考えながら、事件と自分が“地続き”であることを思い知らされました。

 2人乗りの自転車は、今も実家の物置にあります。
 ですが、父と弟が一緒に乗ることは、この先もないでしょう。

photo credit: rsfrd Schwinn Twinn via photopin(license)

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