拙サイトで最初に取り上げた書籍は『支援者が成長するための50の原則』でした。
知識や技術に先立って人間性の確立を求める言説への、強い共感は現在も変わりません。
『「普通がいい」という病』の著者は精神科医。より良く生きるためのヒントが、読みやすく書かれた好著です。
学びや気付きに富んだ内容なのですが、ここでご紹介したいのは、「愛」についての考察です。『支援者が…』での示唆が、別の角度から説かれています。
何らかの援助的な行為の裏側に、「相手のため」とか「感謝されたい」などの思いがひそんでいるもの。これを著者は「偽装された『欲望』」と呼びます。
愛のように見えても、本質は「欲望」。結果として相手に何かを強要することになるからです。
では、欲望を伴わない愛とは、どのようなものなのか?
著者はバナナの例え話で説明しています。
「自分をきちんと満たしてやること」
男性がバナナを5本持っていました。
飢えた物乞いに出会った彼は、バナナを分けてやることに。普段はバナナを3本食べて満腹・満足するところを、彼は2本食べて我慢し、残りの3本を物乞いに与えました。
ところが、物乞いはバナナが嫌いだったのか、その場でバナナを投げ捨ててしまいました。
男性は「恩知らずめ!」と激怒するでしょう。
ですが、彼がバナナを3本食べて満腹・満足した上で、食べ切れない2本のバナナを物乞いに与えていたら、あまり立腹せずに済むかも知れません。
男性が我慢した1本のバナナ、これが愛と欲望を分ける…と著者は述べます。
我慢したバナナには、感謝という見返りを期待する、彼の欲望が込められています。期待した見返りが得られなかったからこそ、物乞いへ怒りの感情が生じる訳です。
愛のために私たちができる第一歩として、著者が挙げるのは「自分をきちんと満たしてやること」。バナナを満腹・満足するまで食べておくということですね。
自分が必要とするバナナが、人間的な成長などによって減っていけば、やがて他者に与えられるバナナは増えていくでしょう。
宗教や倫理では“欲望の滅却”を教える場合が多いけれど、著者の考え(捉え方?)は少々異なるようですね。
自分の身を削るようにして、弱者の援助に尽くす人たちがいます。それを決して否定はしませんが。
誰かを幸せにするためには、まず自分が幸せでなければならない。まず自分を幸せにできなければ、誰かを幸せにすることはできない。…福祉に携わる者として、肝に銘じておくべきでしょう。