社会福祉士の職務のひとつに、社会資源の把握があります。
定義はさまざまですが、おおむね「ニーズの充足や問題の解決に活用される、各種の制度や機関、施設、グループ、個人など」を指します。
先日、ある研修会で行なった、事例検討のグループワーク。
障害者の自立生活に活用できる社会資源について、意見を出し合いました。
ベテランの福祉専門職が多かったので、さまざまな意見が出たのですが。
ワークの終盤、参加者から興味深い発言がありました。
「求められる」は「果たされる」へ
「重い障害のある人は、社会資源にならないだろうか?」
障害当事者であっても、福祉への貢献はできます。当事者の相談を受けるピアカウンセリングを行なったり、自分の体験を通してバリアフリーマップを作ったり…。
しかし、ワークで出た言葉の真意は、「重度障害者そのものが社会資源と見なされるのではないか?」との率直な問いかけでした。
グループ内の見解は、私も含めて「あるだろう」で一致しました。
重い障害のある人には、量的・質的に高度な支援が求められます。そして、「求められる」という作用は、「果たされる」という作用につながります。
重い障害のある人の存在を契機に、もたらされる支援の高度化が期待されるのです。具体的には、支援者の資質向上や、サービス拡充への動きなどでしょうか。
どのような人にも、社会に資する可能性がある…。
“理念”としては何度も耳にしていたこと。それが今回、感覚的に理解できたように思えます。
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