光文社文庫版『純粋理性批判』全7巻のうち、2巻までを読了しました。
読み始めたのが2021年8月24日なので、丸3年ほどかかったことになります。
毎週1~2節という読解のペースは変わっていません。
スローペースではあるものの、途切れてしまうこともなく、地道に続けられています。
読解に着手できていない時は、焦燥感とも不安感ともつかないモヤモヤとした気分に。ところが、ひとたび読解を果たすと、心の中はスッキリ晴れやかになります。
いつの間にか私は、「毎週わずかなりとも『純粋理性批判』を読み進めなければ不快になる」というマインドセットにはまり込んでしまったようです。
読み進めながら、私は読書ノートを取っています。
時おり読み返しているのですが。読解での感想などを書き込んだメモ欄が、なかなかに味わい深くて面白い。その時に抱いていた、私の感情が詰まっています。
……ヒトゴトのような態度ですが、自分のものとはいえ3年前の記述なので、さすがに憶えていないのです。
読書ノートをパラとめくりながら、感想メモを読み返してみましょう。
疑問やツッコミ、ボヤきも…
最初に書いたメモは「リンゴ→見る→『リンゴだ』→リンゴを見た」。
これは「すべての認識は経験から始まる」という、『純粋理性批判』の序論の一部を、自分なりに表現してみたものと見られます。
「『直感』は感性から/『概念』は知性から」「すべてを取り去ったその跡には時間と空間が残るのだ」などなど。
これらの記述からは、自分の言葉に置き換えることで理解しようとした形跡がうかがえます。本当に理解できているのかどうかは、後で検証する必要がありそうですが。
「総合的な判断/数学以外に何があるのだろう…?」「自然を自然たらしめてるのは私たち…?」などなど。
これら「?」で終わる記述からは、とりあえず疑問点を挙げておこうという意図や、理解に至っていないことへの自信のなさが表れているようです。
「完全で完璧らしいぞ」「自分の正しさを主張しないとね」などなど。
カントの言説への“ツッコミ”のような感想メモです。興味深く読み進んでいた時の“気分”が伝わってきます。
「定義が難しいなぁ…」「解説見ないとまとまらないなぁ…」などなど。
内容への理解が及ばず、立ち往生してしまった時のボヤきと思われます。ネガティブではあるけれど、理解が不充分な箇所の指標とも言えますから、読み返す際に役立ちそうです。
残る『純粋理性批判』は、光文社文庫版では5冊。まだ半分にも達していません。
読書ノートへの記述が進めば、感想メモも増えていくはずです。これまで以上に。
この先、私はどのような感想を抱くのでしょうか?