ある日、ふと『純粋理性批判』を読んでみようと思い立ちました。
私は大の読書好き。
読書は最高の娯楽と思っています。ゲームやスポーツ、音楽、映画など、さまざまな娯楽がある中で、最も面白く、刺激的にして感動的なものが、私にとっては読書なのです。
一方で私は、読書は最大の学びと考えてもいます。
読書後の自分は、読書前に比べてわずかなりとも何かを「得た」と感じられる。この感覚は他の娯楽にはありません。個人的な見解ですが。
とはいえ、振り返ってみれば私は、名著とされる多くの本を読み飛ばし、漫然と消費するばかりでした。読書から得るものがあったとしても、確たる手ごたえというか、重みのある実感みたいなものが、イマイチ足りない気がするのです。
読書を娯楽として割り切りすぎていたのかもしれません。
読みごたえのある本を、じっくりと読み込んで、自分の血肉にしたい…。
そんな願望が少しずつ積み重なり、いつの間にやらあふれ出て、このたびの『純粋理性批判』を読むという計画になりました。
では、何故に『純粋理性批判』を選んだのか?
「哲学史上屈指の名著」とも
前述した「読みごたえ」「じっくり」「血肉に」などのニーズを満たすには、哲学方面の名著がふさわしいと考えました。そのうえで、難解であっても読み甲斐のありそうなものを…と探し回り、『純粋理性批判』に行き当たった次第。
我ながらミーハーな選び方だと思います。
読んでみた経験のある人が少なくないというところも、『純粋理性批判』を選んだ理由のひとつです。
読破して何かをつかみ取ったらしい人もいれば、数ページで早々に挫折してしまった人もいるようですが。成功談であれ失敗談であれ、私の参考になります。
ドイツの哲学者、カント。
「近代哲学の祖」とも称される、この人物の主著が『純粋理性批判』です。
読んでみたという人たちの感想には「難解」「分からない」「挫折した」「意味不明」などなど、ネガティブな言葉が頻出。「悪名高い」と表現する人までいます。
半面、「哲学史上屈指の名著」などと評価されているのも事実です。「カント以前の哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後の哲学はカントから流れ出る」と称えられる人物の主著だけに、やはり高い価値があるのでしょう。
少なくとも「読みごたえ」「じっくり」「血肉に」を満たすのは間違いなさそう。読み通すことができたら、の話ですが。
これから私は、『純粋理性批判』を読んでいく過程を、このブログにつづります。
ブログのタイトルを「読解記」としたからには、読み解かずには終えられません。その“縛り”が、ひるみそうになる私を後押してくれるだろうと期待しています。
おそらくは、高峰への本格的な登山のように、事前に準備を整え、ある種の予行練習をこなしてから、踏み出すことになるでしょう。登っていく途中で、足止めされたり、転落したり、道を踏み外したり、迷ったりすることでしょう。
時間がかかっても挫折することなく、いつか読破に至ることができれば幸いです。
このブログを通して、あなたにお付き合いいただければ、これまた幸いです。