私の実弟はダウン症。染色体異常による疾患で、知的障害などを伴います。
これまで何度も言及してきたことです。
ダウン症は先天性であり、1000分の1程度の確率で発現するとされます。
可能性は誰にでもあるので、各種事故や病気、薬害などによる障害と比べれば、まだしも「平等」と言えるかもしれません。
ところが、出生前診断が広く行なわれるようになって、ダウン症も平等ではなくなりつつある模様。
そればかりか、先天的な障害さえも「自己責任論」で断じられてしまう、そんな危うさが生じているようです。
出生前診断によって胎児の遺伝子疾患を調べることで、ダウン症児を授からずに済む可能性は高まります。
そのためには、診断を利用できる知識力や、診断に臨む実行力、その費用を支払う経済力が必要とされるはず。さらには、よりよい診断機関を選ぶ情報力や、疾患が見付かった場合の決断力も求められそうです。
ある種の“力”の有無が問題とされるところには、自己責任論が生じます。
ダウン症児を授かったのは、親が出生前診断を受けなかったからであり、実行力などを欠いていたことに責任がある…このような見方です。
持つ者と持たない者、授かった側と授かっていない側
ところで、近年の科学技術の発達により、「デザイナーベビー」が現実化しつつあります。
受精卵を遺伝子操作することで、優れた知力や身体能力、容姿などを備えて生まれてくる赤ちゃんのことです。
このデザイナーベビーという存在には、障害にまつわる自己責任論を、余計に活発化させるおそれがあると思います。
デザイナーベビーを授かれるだけの経済力などを持つ者と、持たない者との間に分断が生じたり、デザイナーベビーを授かった側が、授かっていない側を自己責任論で責めたり…このような状況が懸念されます。
私の母、ダウン症の弟を産んだ母は、出生前診断については容認の立場でした。「育てるのに苦労するから、障害児を進んで授かることはないと思う」と話していました。
弟を養育するうえで大きな苦労があったことを、身近に見てきた私は知っています。その母の言葉は重く、簡単に反論や否定ができるものではありません。
しかし、出生前診断やデザイナーベビーには、障害のある人びとを受け容れられない、不寛容な社会を招くおそれがあります。
ですから私は、この社会を歪めるような技術を、安易に認めるべきではないと思うのです。